さいたま文学館「企画展」(平成25年)において、『大正時代、女性が作詞した校歌』として、八基小学校の校歌が取り上げられていますので、その一部を紹介します。 『校歌-いちばん身近な詩』 (平成25年 さいたま文学館 編集・発行)より 校歌を作る際の文部大臣の認可というハードルは高かったようで、しかも大正、昭和と時代が下がるにつれて、手続きが煩雑になる傾向があった。 申請から約3ヶ月、修正箇所なしで認可されたものもある。現在の深谷市立八基小学校の校歌である。 作詞者穂積歌子(1863~1932)は、渋沢栄一の長女で歌人、「万葉集」等の研究者で、渋沢が自身の相談相手になる人物として、歌子の夫に選んだのが法学者穂積陳重であった。 渋沢栄一翁の膨大な寄付により、明治29年、ほぼ現在の八基小学校の位置に洋風の校舎が完成した。渋沢は毎年秋に故郷を訪れていたが、歌子が同行することも多かったという。 戦前は、社会的地位が低かったためか、校歌の作詞者が女性であることは少なかった。 実は、この校歌は、官報第943号や埼玉県行政文書「大里郡八基村尋常高等小学校唱歌用歌詞楽譜ノ件認可」では、「男爵澁澤榮一作歌 學習院教授小松耕輔作曲」となっている。少なくとも手続きは渋沢の名で行われたのである。 一方、地元では歌子の歌詞と言われ続けてきた。しかし、記念誌には大正元年に入学した方の思い出として、「4年頃、校歌は渋沢男爵の作と聞き、同族でもあり印象深く心に残る」とあり、当初は渋沢の作詞とも言われていたようである。真相は不詳だが、高齢・多忙の渋沢に代わって、歌子が作詞した可能性は高い。今でも渋沢の命日に地元の有志が集まり、歌子作と伝わるこの校歌を歌うそうである。 この記念誌に掲載されている写真には「大典記念八基小学校々歌」とあり、この校歌が大正天皇即位奉祝のためのものであったことがわかる。この年、京都で行われた大礼に歌子は夫陳重とともに参列している。渋沢は渡米中であった。 以上八基小の校歌は、県内で7番目に制定されています。詳しくは、さいたま文学館発行『校歌-いちばん身近な詩』をご覧ください。